書きながら同時に読んでいるという現象について

文章を書く時、最初から全体が見えている時などまるでなく、かといってすべての言葉がランダムに瞬発的に発せられて最後に辻褄があう、というのも少し違う。今ここ、を見つめながら、それでも数分後に描かれる景色に向かって進んでいるんだという気分、眩しさ、みたいなものが確かにある。

プロットという言葉があるけれど、この箇所でこういう内容を書く、みたいなことがすべてかっちり決まっていたら、文章はきっとつまらない。それは都市が、上から見たときと中を歩いた時の見え方に差があるのと似ている。駅があって、道があって、ショッピングモールがあって、住宅がある。全部揃っているように見えるけれど、実際に生活していくとつまらないどころか、不便で、何か精神的によくないようなシステム上の弊害が起きている場合だってありうる。奇しくもこれは建築における<機能主義>が陥った誤謬、みたいなものに似ているような気がする。あまり詳しいわけではないのでこれ以上は触れないけれど。

書く人が、同時に読み手であるというのは面白いよな。文字を出すとき、次の単語や内容の一かたまりくらいはすでに頭の中にあって、それは他人の書いたものを読むときも同じなのかもしれない。というか、そうでないのなら、一寸先の未来が全くの空白であったなら僕らは生きることなんてできないだろう。文脈なり、意図なりを汲んで次の反応を肌の下に蓄えておく、それと照らし合わせて納得したり驚いたりすることが考える、感じるということなんじゃないか。でも、文章を書いているときは「文章を書いている自分」なので普段のことはわからないなあ、案外、いつもは何も考えていないのかもしれない。だとしたら文章を書いているこの状態に「思考」という名前が付くのか。脳ではなく、手で考えている? それとも持ちつ持たれつなのか。この問題は簡単には解明できなさそう。

追記:書いたあとに西加奈子の小説を読んでいて、流石に先読みできるみたいに書いちゃったのは変だなと気づいた。けれどまあ、自分、というものは停止した今、よりも少しはみ出た部分にあるんじゃないかというのは変わらない、変わらないよ、サラバ!