愛す可き、

ひとが、可愛くなっている。

作為と作品が似ているのは一種の詐欺で、本来作品とは作るところにはない。世界というものが目の前と、それからどっか脳髄の裏側かなんかにあって、そこから何か、色や音、概念や言葉を降霊術みたいに降ろしてくることが作品を成す、ということなのだと思う。だから「自分はこう見られたい」とか「こういう考えを届けたい」と“考えた”時点で、それは超原理的な意味での作品というものから離れた別の種類のプロセスなのではないか、とそんな風に“考えて”しまう。

可愛い、というのは逆に、モロに作る側の方に寄っているような気がする。それはきっと恣意や作為に向けられる感情だ。例えば犬なんかが寄ってくると、人は「犬が私に愛でられ用途している」という作為をその中に察知して、だから“愛す可し”と思うのではないか。小さな子をお使いに行かせてカメラで尾行する番組があるけれど、あれも逐一の行動にその子の作為が読み取れるからこそエンタメとして成立している、みんなでいっぱい食べられると思って大きい方のお肉を選んじゃったんだよね、とか。あまりこういう考え方は理屈っぽいのでしたくないけど、“可愛い”は“愛することが可能”なんだから、結局は受け手のキャパの問題であって、こちらの理解の範疇を超えてしまったらそれは可愛いではなくなる。あるいは理解できても実力的に及ばない、例えばスポーツ選手とか、やり方やモチベーションを説明されたって同じことは無理でしょう、でも「サー!」みたいなちょっとした仕草は「あっ、この局面で得点できたのが嬉しくてたまらないんだろうな」と理解することができて愛することができる。つまり作為の痕や思考プロセスが透かし見えて、かつしょーもないことしかしてない、これが可愛いの条件。可愛いは作れる、とはよく言ったもんです。そういう意味じゃないか。いずれにせよ、可愛いは相手の存在を手の平に転がして上から眺めているような、極めてエゴイスティックな感情なんだ。

これに絡んで思うのが、書くひとが可愛くなってるなということ。ちょっとした出来事をわかりやすく、ふわっとした雰囲気で。人気ライターの記事とか、noteでバズってる文章なんかを見ると特に、こう、可愛いな〜と、ニヤニヤしながらちょっと嫉妬してしまう。あれも才能なんだろうな。きっと旧来からの“紙文化”的な堅いテキストを好む人は「あんなん二流だ」とか言うんだろうけど、確実に一流だと思う。いい加減そこを認めないと自分の方も潰れそうです。可愛いは正義、絶対に。やさしく、つよく、おもしろく。みんな愛したいんだ、愛したくてたまらない。その敷居に自らこうべを垂れて、ハードルを下げて入っていく。笑顔でそれができないと、can love は獲得できない。もう遅いかもしれないけど、世の中は確実にそっちへと流れていっている。可愛いやつが勝つ時代。読む、ということが、わからない何かに向かって手を伸ばしていくことだった時代は終わってしまった、のかもしれない。あるいは縮小しただけか。いずれにせよ(いずれにせよ多いな)陸地が海にどんどん侵食されていくようなじっとりとした危機感がそこにはある。わかりやすくなってたまるか!みたいな感情はだったら、この先どうしていけば良いのか。冷房で足が痛くなってる。