嫌いな食べ物をちょっとずつ齧るみたいに

やっぱり文章を書くという行為が、とても不思議に思える。

なぜこんなにも無駄な行為に対して自分が執着しているのかが、とても奇妙でならない。よく論理的思考だとかって言うけれど、実際は論理が来るより先に答えに辿り着いていることが、ほとんどだと思う。直感が何よりも速くそこへ到達して、音としての論理が後からついてくる。それで完成。「思考」はだから、雷に似ている。

その「音」を、正確に記述する。稲妻を目にせざる者に、その落下位置を教えるのと同じに。ほとんどの文章はそういう役割を担っていると思うし、そうあるべきだと思う。

もちろんそうでない文章で価値のあるものは沢山あるのだけれど、今はまた別の話だ。思考を言語化する。他でもない自分のために。ある意味それは、鏡で自分の顔を見続けること以上に、不自然で何処へも行けない感じがする。

僕が表現したものは、僕自身なのだろうか、と、僕はここで「思考」する。否である、と直感が言う。所以は流れにある。人の存在は流れだ。僕も、あなたも、永遠に実を結ぶことのない可能性の塊であり続ける。絶えず未来の姿をほのめかしながら、ここにいる、もういなくなった、そしてまたここにいる、を繰り返す、その営みの輪郭を時間と呼び、過去と呼んで懐かしみながら。それはこうして、キーボードを叩く間も同じだ。文字が現れた瞬間には、もうその時の僕はいない。それらの文字の総体が、あなたに届く時はなおさら。

そうだとして、と、なおも僕は「思考」をやめない。そうだとして、僕は間違いなく自分が生み出したその「自分ではないもの」を見て、何を期待しているんだろう。あるいは、恐れて、恥じて、悔やんで、そしてまた生み出し続けるのだろう。

時間のことを思う。アインシュタインベルグソンを読むまでもなく、今目の前を生々しく流れる時間のことを、まっすぐに見つめている。これを書いているいま、冒頭の文章はすでに過去だ。とても過去らしい過去。無意味だとか価値があるだとか、そんな言葉を好んで使う、自分の無意識の傾きが疎ましい。善に依るつもりか?この世の全ては不条理、その氷山の一角は、すでに身をもって経験しているというのに。

推敲という言葉は詐欺です。それは、過去の改ざんです。僕はちゃんと受け入れなければならない気がしている。僕の選んだ言葉全てが、実体と質量をもった影、他でもない自分の過去であるということを。

あなたが目にしているものは、全て、僕の、過去です。

「嫌いな食べ物をちょっとずつ齧るみたいに」

それがこのブログのタイトル。実はこのブログを開設したのが去年の三月で、このタイトルもその時に浮かんできたもの。その時は次々と生まれて仕舞い込めずに吐き出した言葉が、それでも「文章」にはならなくて、一つも更新しないままだったのだけれど、こうして書くことに改めて向きあおうとしている今、それをそのまま、使うことにした。

当時、とてつもなく狭くて暗いトンネルの中に僕はいた。もちろんこれは比喩なのだけれど、具体的な話を小出しにするよりは、トンネルという言葉に全てを憑依させた方が伝わりやすいと思っている。よく、「出口の見えないトンネル」と言ったりするけれど、実際にその中に立ち止まっていた僕は、それでもどこかで、それは自分が踏み出さないせいだとわかっていた。出口が見えないことと同じくらい、踏み出す足の重さが苦しい、それでも日々は進んでいくから、朝を迎えるたびに空気が薄くなっていった。このブログのタイトルは、そんな毎日の中で零れ落ちたフレーズでした。小さい頃にブロッコリーが嫌いで、母親が食べ終わるまで寝かせてくれなかった夜があった、それが、そのトンネルの日々と同じなのかもしれないと思った。慰めも誤魔化しも要らないから、頭の中に目一杯の苦さを思い描いて、歪んだ顔で、少しずつ齧っていく。それしか方法はないし、そうすることで自分は自分でいられる。それだけが救いかもしれなかった。自分の苦しみを否定してしまったら、何処へもいけなくなるのだと学んだ、その時の感情を残しておくためのタイトルです。

思考も感情も全てが過去として溜まって、可能性の水を刻一刻と飲み干しながら、いつかついに消えていく運命にある。そのことをはっきりと忘れないでおきたい。今もなお新しく生まれていく過去が、せめて辺りを照らしてくれるように。その光が「今」という、尊い名前でいてくれるように。

追記@2018年7月17日:この記事を書いたときのブログタイトルは『嫌いな食べ物をちょっとずつ齧るみたいに』でしたが、その後名前を変えることにしました。名前をつけるとなんとなくメディアっぽく、はならないけれど妙な力が入ってしまう。もっと軽い感じで、メモとか走り書きみたいなものを置いていく場所にしていきたい)