never ending 平成

平成最後の夏です。あえてそう口に出したとき、お前はそんなに平成を愛していたのかよ、最後を惜しむほど大切に接してきたのかよ、そんな思いが首をもたげて心のどこかでウッとなる。そもそもいつからこんなにも自分の言葉に厳しくなったのか。意識が高いのか、物書きを気取っているのか。誰のためにもならない努力をしながら、それでも時間は過ぎていく。

思えば元号とは不思議なものだ。国の制度としての成り立ちはよく知らないけれど、知らないのにみんな結構しれっと使っている、そんなところが不思議。平成。白くて黄色い、ちょっと光っててゆで卵みたいな平成。申込書を書くとき、生まれ年を聞かれたとき、確かに僕は平成を持ち出して、その度によくわからない奇妙な誇らしさ、まるで自分の人生に初めて名前をつけてもらったみたいな暖かさを、感じていたんだよな、認めざるを得ない。そうやって他人から借りてきた言葉で自分を飾ることでしか喜びを得られないようなところが自分にはある。あなたにもある、と信じたいけれど決してそんなことはないと言える人の方がむしろ多い気がする。

この前僕のnoteを読んで「今太宰や三島が生きてたらもっと読みやすい文章書くと思うよ、平仮名多めで」と言ってきた人がいて、ああそうか、と思った。確かに僕の文章は堅い、漢字の多いところがある。概念、とか、存在、とか、やたら使いたがる節がある。それは別に太宰や三島の真似をしている訳ではないけれど、というかこの二人の本はそんなに読んだことないけれど、それ以外に読んできたたくさんの本が僕にそういう文章を書かせているんだろうな、まるでそのことを誇示するかのように。だから僕にとって、書くことは常に自分の中にいる他者との戦いだ。白い画面を目にする度に、自分の中に言葉を探したりなんかはせず、思考と呼ぶのかなんなのか、言葉の波に自分を預けてしまう状態、そんな何かがやってきて、蜜みたいな時間とともに白紙が文字で埋まっていく。それが心地よかった。怖くもあった。この言葉は、この言い回しは、以前読んだ誰々の文章と一緒だなということがキーボードを叩くたびに生じていて、その度に少し嫌になったりはする。自分の中にいる他者。そいつを殺すことなんてできなくて、似ていようがなんだろうが言葉を出して突っ走ることで超えてやろうなんて思っていた。そして負けていた。これは一体誰が書いたものなんだろう。そんな風に思えるような文章が結構褒められたりはしていて、その度に自分の心から言葉が離れて、膨らんで、風船のように飛んでいく気がした。何を書いているのか、何を喋っているのか、わからないままそうするしかない。流暢なのに不器用。そのせいで、というのもなんだかおかしいけれどそのせいで、見誤った人との距離が、もう元には戻らない人々との関係が、確かにあった、数え切れないほど。平成というものに実態があるのだとしたら、僕にとってそれは案外血まみれだったりするのかもしれない、そんなことを思う。

ノスタルジーってなんだろう。過去は、確かに自分が過ごしてきた経験であってその度ごとの色合いがあるはずなのに、ノスタルジーは全てを淡いブルーに変えていく。無責任だ。でもそれを気持ち悪いとはっきり言えるほどに強くはない、少なくとも自分は。もっと流れるように流れそのものでありたいなあ、生きるのも書くのも。10代の頃は変わらないものだけが真実だと信じていた。なんて傲慢だったんだろう。人は変わっていく、関係性は、消滅していく。そこに少しでも、自分のオールを差し込みたいと願ったりもするけれどどうやら難しいみたいだ。平成。過ぎ去った全ての人が、言葉が、消費されたのなら消費されたという事実さえそのままに、その中に入っているのなら。最後を惜しんでみるのも悪くはない。いつまでも平成は平成でいてくれ、ノスタルジーより特別な、鋭い輝きを放って。