昨今、文体至上主義

千葉雅也『デッドライン』読んだので取り急ぎ。読めない、この小説はたぶんあまり好きじゃないと思ったのだがその苛立ちの中に、なにか“何処へも行けない”という、深夜の海岸に転がった空き缶を見ているような感覚が混入していて、案外読めていたのかもしれないなと思い直す。円環、書けない論文、ゲイとしての欲望が結局は自分に向かっていくということ、家族、泡のような人間関係、物語を否定したような構造とそれに対する言及。とにかく色々な要素が繋がるともなく繋がっていて、そのすべてがこの“何処へも行けない”をつくっている。そしてやがてくるデッドライン……。うーむ、なんかこう、とくにこれといった感情を引き起こされない人物同士のやりとりがすべて主人公の哲学的探求に収束していって、しかもそれ自体最後にはうまく行かないのでなんだかいちいち辟易とさせられる、というのもあるし、「これはどういう意図なの……?」というシーンがのちに唐突なタイミングで「あ、なるほどあれはここに繋がってるのね!」という形でいったんは解決に至るというような、何度も後戻りを強いられるすごろくのようで少し面倒臭い。ゲイとして、支配者性の権化みたいな男に惹かれる女的部分と、でもそういう男に自分がなりたいという部分が混濁しているという心理とか、イケメンなんだからイケメンと付き合えよみたいな、そういうのはすごく面白かったから、そこを詳しく縦横無尽なテンションで書いたりはしないのか、あの速度で抱かれたい、というところに巻く渦をもっと大きくしないのかとは思うけれど、それに対しては物語性の否定という形で対抗されてしまうのだろうか。よくわからない。ちなみに、SF作家の樋口恭一さんがツイートしていた、サスペンスみたいなカタルシスの起こし方、的なやつはよく理解できなかった。だから自分は、読者として読む力が足りないのかもしれないとは思う。

しかしよく考えてみれば、というか考えずとも、何処へも行けないというのはすべての小説に当てはまることのような気がする。というより、人生とは何処へも行けないのだ、ということを悟ってからの悪あがきのようなものという気がする、小説は。でもって、その悪あがきにのたうちまわる炎がきっと文体だ。何処へも行けないが煮詰まって、でもその中でふつふつと溜まりに溜まった視点の実存が最後、なんの変哲もないひとつの言葉によって圧倒的に気化していく。そこに読む気持ち良さがあり、そのための積み上げ、そのための下火にも文体はなっている。要するに自分は、この小説の文体に引っかかったのだろう。作品を、世界を、構造的に開示するべく選んだ簡素な文体、という風に僕は感じたけれどどうなんだろうか。だとしたらすごく大人で、僕は赤ちゃんなのでつらかった。それとも作者は噴きこぼして書いたけど僕の好みじゃなかっただけなのか。とりま酒と冷房。何処へも行けない。