軽薄だからこそ

現実を知っているというような口ぶりの人々の語る現実とは大体がカテゴリ的に決定されているわけで、それは性欲、暴力、金銭欲求承認欲求といったもう歴史上何遍も何遍も人類を破綻させ疲弊させてきた諸々のロジック、はたまた情動であるわけですが、果たして、それらをお餅のように世間様に投げつけ己の真実を正当化することと、それらの“現実”がほとんどないことのような顔して愛だの希望だの歌うこと、いったいどちらがより罪深く、いやらしいのでしょうねぇ。これにしたって結局は誰がなにを言うか、の問題系に収斂していくのでしょうか。でもそうかもしれないね。そうかもしれない。人は顔や目つきや口調や身振り手振りを内容以前に判断の指標としていくし、それは言葉の存在を形骸化しているということでは決してなく、内容、意味、論理の跳梁を許さない人間最後の抵抗みたいなところがあるのかもしれん。書く人はそれを文体でやっているとおもう。だからそこには滲み出る。その人がなにを信じているのか。信じようとしているのか。その言葉によって彼彼女の懐へ反射として飛び込んでくるのはなんなのか、その反射物を彼女彼は愛するのか、憎みつつも受け入れ忸怩たる思いとともに明日へ向かって歩くのか、そんなようなことが。とかなんとかいっておいて、結局できることといえば好き嫌いの判断、ぐらいのもんで。だからこそ、軽薄だからこそ言葉は良いのかもしれない。