羽化してさよなら

ひとと酒を飲み交わすのが不得意になっている。酒じたいは好きだし、嫌なひとと付き合いで飲むほど首尾よく社会人できてないけど、なんでしょうね、飲んでる間はさして気にもならないいろんなこと、たとえばここの料理まずくはないしうまいんだけどここまで喜ばれるとなんか違和感とか、このひとひさびさに会うけどこんな顔してたっけとか、会話のなかで生まれる謎の間とか、いまなに考えてんだろうこのひととか、あっついなこの席とか、トイレから戻るときに壁の鏡に偶然うつりこんだ自分の顔にぞっとする感じとか、なんかもうそういうもろもろにたいする無意識の膨らみがだんだんと大きくなって、眠りの針に突かれて破裂、とりかえしのつかないことをしてしまった感として翌朝おそいかかるのです。ああいう感覚はもう、「他者」としか言いようがない気がする。デジタルカメラが処理できるコマ数に限界があるように、人間の感情、関係性や解釈によって処理できる現象にも、きっと限界がある。この人のことは好きだけど、その人と一緒にいる際に生じるすべての現象を好きに還元することは不可能、というような。ことに酒を飲んでいると、自分そして外界という構図もどんどん曖昧なっていって、自我プラス自分そして外界みたいな、わけのわからない自分という現象体が一個足される。そして、別に不快にさせる発言をしたつもりはないけどとにかくすべての言葉が自分のコントロールから離れていって、ここにいる自分は本当に自分なのかというような感覚へとやがて成長するし、終盤、もうなにも食べたくないはずなのにまるでなにかに急かされるように変なものを頼んでしまうときには、意識の真裏で無音の狂騒がまきおこる。チャップリンの時代の無声映画が頭の中をぐるぐると駆け巡る、ヒトラーがなにか叫びながら拳を行き来させている。そういう、外界とお相手に自分までが協賛して、つくられたわからないがわからないをさらに呼び、産んで、群れとして集まった集合体の重みが、他者。この他者だなぁという感じは、翌朝孵化してから気づく。つまり後追いで、記憶を塗り潰していくのです。なんて理不尽。なんて暴力。なんて芸術。いつかさよならとして羽ばたくのも、こういう理不尽さなんじゃないだろうか。なにか価値観の違いみたいな決定的のものではなく、他者であることの宿命的な重みが、どうしようもない乖離となっていつしかその羽を開く。そして伸ばした指のすぐ先を、ほろりと舞ってさよなら、