白々しい朝の光について

西加奈子サラバ!』、ほんとうに面白いです。小学生くらいにハマった重松清を思い出す。思えば中学から村上春樹村上龍、ドスト、みたいなメタフォリカルで酩酊したような世界に傾倒していたから、今回のような「思いっきり人間くさい」小説を読むのは久しぶり。西加奈子はアメトークの読書芸人でも紹介されていたようだけど、確かに芸人が好きになるのがわかる。人間観察の鋭さ、エピソードの軽妙さ、いわば主人公とその家族を巡る「すべらない話」の箱詰めみたいな小説とも言える。まだ僕も途中なのだけど、ぜひ読んでみてほしいです。

話は変わって、というかこっちが本題なのだけど、その『サラバ』に新興宗教の話が出てくる。主人公が幼い頃から家族ぐるみで仲良くしていたおばちゃんが、なぜか新興宗教の教祖的な存在になっていくというエピソード。背中に弁天様の刺青があったり、性格がチャキチャキしていたり、もともと近所の「頼れる人」的存在ではあったのだけれど、ある時期から家の祭壇に続々と人がやってきて、奇妙なお祈りとともに高価なお供え物をしていくという…。今僕が読んでいるところではだんだんとその規模が広がっていて、そして主人公の姉がおそらく深くハマっていくようなことが示唆されている。とにかく今後の展開が楽しみ。

なぜこのことに触れたかというと、読んでいて「自分も歳を取ってから新興宗教にハマらないとも言い切れないな」と思ってしまったから。この小説の宗教も最初は地域の小さなネットワークみたいなところから発生しているから、宗教って神様とか奇跡とか超自然的な部分は案外本質でもないんだろうなと。みんな歳をとったり、家族を失ったり、それぞれの理由で「社会」から疎外されてしまった人たち、彼らが求めているのは居場所やつながりであって、奇跡ではないんだろう。だとすれば、自分にとって孤独とはどういう状態か、それは苦しいことなのか、案外大丈夫なものなのか、苦しいとしてどう和らげたらいいのか、ということについて考えて置かないと、いずれ時の流れに日和ってその対処法がわからず、身の破滅を招くということだってありえない話ではない。

生きていて孤独を感じるのは深夜だという人は多いような気がするけど、僕はけっこう朝、目が覚めた瞬間だったりする。会う頻度によらず、僕と周囲の人間の間には糸のようなものが張られていると思っていて、でもそれがある朝たわんで、どこにも繋がっていないことに気づく、そんな愕然するような朝が、ときおりやってくるのだ。まるで自分が昨日までと別の人間になったような、それでいてものすごく「自分」という気がする変な気分、ほんとうに僕はあの人と友達だったんだっけ? 家族、とは? ほんとうに、僕はあの人と愛し合っていたんだろうか? そんな気持ちの悪さを押しのけるようにして、ふと昔付き合っていた女の子の記憶が蘇ったりする。それはとても甘美で、僕の孤独感を少しだけ和らげてくれる優しい、記憶でありながら記憶らしくない、輪郭を欠いた影のような映像。きっと、現在交流のある人は会うたびにイメージや関係性が更新されていく不安定な存在だから、目覚めたばかりの無防備な自分はそれに付いていくことができない、だから、自分の中で美化されて固まった他者のイメージにすがろうとするのかもしれない。これってもしや「神」と同じことなんじゃないか?  限りなく理想に近く、向こうからはなにもしてこない一方通行なイメージ。だからこそ、一心に帰依したり、際限なく愛することがある意味許されてしまう。

だとすれば、僕らはすでにものすごく孤独なんじゃないか。それなのに「自分はまだ大丈夫」といって、むくりと起き上がり街に出ていけるのはなぜだろう、“若い”から? いつか、その愕然とするような白々しい朝の光に耐えられなくなって、わかりやすいイコンに全てをなげうってしまう時がやってくる、そんなことを想像してしまいます。もやもや。