今はたぶんまだミぐらい

わたしはわたしという人間であることになんの疑問も抱きはしないのだけれど、いやたまにサンゴ礁の奥深く未だ人に知られてない生命体の仲間の一員になったような、決して辛くはないが圧倒的に重みのある孤独の中で肉体というものの裁きに対する弱さを感じはするものの、そういうのはごくごく個別具体的な、実感という概念すら水で薄めてしまうほどのなにかなのであって、とりあえずはそれが、人生のなにがしかを左右すべく方位を指し示すということはないのだった。どういうわけか人は、しばしば次のことを忘れる。わたしはわたしだが、それはほかのだれそれと交換可能であること。わたしの同等かそれ以上、あるいは古くを消して新しいの、ともかく才能や容姿や経歴や家柄やコミュニケーション能力といったものの細部に至るまで、わたしはわたしでわたしのものであるといって譲らない。ドレミファソラシドの音階を踏むように人生が破滅へと向かっていくのに、いや向かっていくからこそ、そうした事実としてはあまりにも単純な事実を認めようとはせず、やれ国だ、学閥だ、企業だ、資格だ名誉だといってわたしにわたしでないものを塗りたくってわたしたろうとする。わたしにはわたしを虐め抜いてこそ見えてくるわたしがあるのだと信じて、みな心身ともに疲れ果て、やがて海の藻屑となってゆく。海の藻屑が古ければ果物だ。にんじんだ。じゃがいもだ。腐った鶏肉だ。塗った爪はなぜ染めた髪ではないのか、と考えるから空が青色に暮れていく。