地獄に暦はない。

書くことに意味はあるのか、なんのために書くのか、

みたいなことを考えた時期もあったけれど、最近はやめた。それこそ意味がない。書くことに意味を求めることは、書く前から書くという行為を縛ることであり、行為を縛るということはその行為自体を無に帰することだ。なぜなら、それは、言葉以外の何物にも縛られず自由であることこそ、書くという行為の目的である、というかむしろ、縛られずにいることこそ書く行為あるいは書いている状態そのもの、であるから、みたいな、そんな感じ。少なくとも、書く、ということにおいては。

嫌いなものを嫌いと言えるようになりたい人ばかりでうんざりしますね。それだけ自由がないのだ。弱いから。「嫌いなものを嫌いと言える」状態とは、今ある、嫌いなものを嫌いと言えない状態から脱するってことで、要するに、強くなりたいってことだ。とはいえ、絶対的な力、自由、すなわちオールマイティなんてないわけだから、どうしてもそこは相対的になるのであり、相対的な変化を望むってことはしばしば今を否定することにもなる。自分含め、弱い今を否定して強くなろうとしてる人が多すぎるんですね。まぁそれはそれで心地良く、停滞よりマシなのかもとも思うけど、一体いつまで続くんだろうな。強者だから自由に振る舞えるのか、はたまた表面的な自由を装うことで強者風に見えればそれでいいってことなのか。もし後者ならば、その人は、強者風俳優としての役回りに翻弄される弱者であり、それはそれで地獄。強者っぽい弱者のもとに集まるのが情報社会という荒野でアイデンティティを揺らがされ続けた結果極端に無思考で無神経なゾンビと化した本物の弱者であることは、だいたい見えている。ピエロに群がるゾンビ。これはまさに本物の地獄である。

地獄でなぜ悪い? 今はそうやって前を向くしかないのだろう。ここは地獄だ。だからなんだ。笑顔で血を流しながら踊るしかお前にはできない。そしてその中で、自分なりのなにかを、掴みとっていくしかない。たぶんそうやって肺掻き毟りながら笑いきったやつにしかわからんのだろうな、本当の強さってやつは。

改めまして新年。何故いつも酒浸りだ? 中島らもが、クリエイションにおいて酒は友のような顔を装ってうんたらとか書いてたけど、そんなことは関係なく、常に酒が欲しい。もはや新年とかに関係なく、常に、酒が、欲しい。暦は酒の奴隷である。そもそも人間は暦の奴隷なのだから、結局人間は酒の奴隷である。要するに暦は関係ない。地獄で私は酒の奴隷、肝臓が供物である。

今のやつつまらなかった。まぁいいや。とにかく良い写真が撮りたい。良い写真とは、と聞かれたら困るけど、色なり、質感なり、光の具合なりにおいて自分のピンと来る度合いを探すことは、かなり重要なことな気がしている。それは絶対に言葉をアウトプットする際にも活かされるアンテナなはずで、世界観、なんて書くと寒いから、集中力、と言っておく。車を運転するのと同じに、風景を見る際、あるいは言葉を探す際の、挙動、目配せ、それらに注がれる神経の配分。それこそが美学であり、集中力。必ずどこかへ導くはずだ。端的なスローガンとしては、なにを撮っているのかわからなくなるようなものが撮りたい。人も、建物も、空も、文字も、等しくただ輪郭と色を持った曖昧な存在でしかない。可愛い女の子を見たとき、可愛い女の子だ! と把握されるのが意味で、それを剥ぎ取っていくのが理想。風景から意味を剥ぎ取る。すべからく盗み撮りで。実際にカメラ持って街に出ると泥棒してるみたいで安心するよ、昔、子供の頃、ウンコがしたくなってトイレ入るとそこで永遠に居続けることもできるんだって思ったら、全能感が満ちて、ワクワクした、そういうのと、少し似てる。孤独が怖いとかよくわからない。孤独こそ唯一の居場所である。熱い湯のような孤独。

言葉も、写真も、音楽も、本当はすべて人間の中枢にある感性の溶液みたいなものを潜った後になされるカテゴライズでしかなく、意味を剥ぎ取ることは、そのカテゴリを外して、本来の溶液の中に戻していくことなんじゃないだろうか。たぶんそれは、さっき書いた自由っていうことにも繋がっていて、否定形でしょ、神秘主義でしょ、みたいに思われるかもしれないけれども、それならそれで構わない。言葉上否定形であるなら、それを超えた芸術を探すまで。コミュニケーション? やってらんないぜ。ていうかコミュニケーションをセックスに例えて勝ち誇ってるやつなんなんだ。そんなにセックスがお上手なのか? それともB'zの聴きすぎか? 人生すべてがSUPER LOVE SONGなのか? これは偏見ですが、自分良いセックス知ってます、みたいなことをやたらとひけらかす人は強者「風」の人が多い。まぁでもわからん。成功してる人はすべからく経験豊富でいいセックスしてんのかもな。導いてんのかもな。少なくとも、あっしは手探りですよ。そのたんびそのたんび自分の不器用さを思い知らされます。というか相手も「お前不器用だなw」とは言えない訳で、じゃあ俺めっちゃ不器用だなーというこの気持ちは何かというと被害妄想に近い訳ですね。褒めてはくれるけれども。だがしかし一方でヤリチン諸氏の話を聞いてると「それは本当にそこまで上手くいってるのか?」という風に感じることも多く、実際は快楽の共有というよりも相手の自己肯定感の低さとかなんとかに都合良くぶら下がってんじゃないのかみたいなことも思うわけですね。まあいいや。とりあえず何が言いたいかというとセックスという結果を重視してるやつは信用できないってことだ。ズブズブの支配関係の中で互いに傷つきながら舐めたり挿れたりして気持ちいい振りしてる人が結構いるんだよってことだ。B'zは悪くないけど。

さようならおっさん。こんにちはおばはん。これは真面目な話、仮に今がクソ社会だとしてそれを作り上げたのがおっさんだとしても、そこには絶対、おばはんとの相互関係が少なからず存在していたはずなのにスルーされている。おっさんの資本でクソなものができます、それをむやみにありがたがる根性は、なんとなくおばはん的ですよね。おっさんから小金をもらい、おっさんの作り上げたバーゲンとかに行きますよね。ステータスを誇示するためだけにブランド品を身につけ、成城石井の生ハムを食べ、成田にヨン様を見に行き、サイドビジネスに青春を見出しながら子供の学歴を自慢したりしますよね。まぁ(ほぼ)身内の話ですけど。もしかするとそれはおっさん社会の犠牲といえるのかもしれない。システムと犠牲は抱き合わせだな。だが犠牲は美しくて、システムが更新されれば涙ながらにお別れできてしまうそういうもんなのか果たして。違うよな。さようならおっさん、というあの文言はおっさんを殺しおばはんゾンビとして召喚し操作する魔法カードだったと思っている。「ブランド人」。 資本に踊らされ表層的なステータスを誇示するためだけに買うブランド品となにが違うのか。既得権益にあぐらをかき、無思考に陥った老化現象をおっさんと呼ぶなら、無思考に他人の決めたステータスばかりありがたがる状態はおばはんなんじゃないのか。そもそもおっさんとかおばはんとかいうワードがくだらないけど、老化現象という意味では使いやすいのかもしれない。いずれにせよ、無思考な消費空間に変化がない限り新しい時代など来ないだろう。

パパ活とか不倫はどうでもイイネ。そもそもなんでこんな社会派みたいになったんだっけ? 絡まった糸の中で暮らしているから自分まで絡まるのか。だとすればこれはこれで真っ直ぐなのか。どうでもいいね。とりあえず僕は今書いてるものを完成させたい。新しい音楽を聴きたい。「ジャズを聴けジャズを。」に代わるなにか。つまらないものを破壊して、そこから自由になること。書くことの意味なんて考えてる間に、閉塞感で死ぬ。だから破壊せよ、突破せよ。年末だろうが年始だろうが終末だろうが。地獄に暦は、ない。