言葉をわかることは永遠にない

蛇にピアス』を読んだ。前に読んだのがたしか中三で、その時が最初だった。全く良さがわからなかったのは、この作品が纏う、設定や主題といった分厚い殻を、突き破ることができなかったから。パンクや身体改造といったわかりやすい“退廃”に対してすごくシニカルだったし、女の人にあそこまで淡々と欲情されるのが少し、怖くもあった。まあ、要するに、ガキだったのだ。

僕は、言葉の持つ本当の意味を理解することは、できないと思っている。もしできる人がいるとしても、それはその言葉を出すきっかけとなった経験を経た、本人しかいない。そして人は生きている限り、他者になることはできなくて、小説を書くときもそれは同じだ。書き手は、登場人物そのものに、なりきることはできない。彼らや彼女らの人生そのものを、生きることはできない。でもだからこそ、小説は、書かれるんじゃないかと思う。圧倒的他者、でもその中に自分が光を当てられる箇所をなんとか見つけだして、距離感を保ちつつ、言葉を出していく。自分と、向こうの、中間にある、たったひとつの言葉として。

本棚の奥底に眠らせていた『蛇にピアス』。大人になった今読むと、僕の目はそれらの殻を貫通して、作品のリアルに触れていた。そしてそれは、あの作品が虚構であると、断言できるということでもある。発表当時、若者の暗部を描いたセンセーショナルな作品、というような売り文句が付いていたのだろうけど、この作品はまぎれもない虚構だ。そして僕は、その価値がはっきりわかる。いや、本当はわからないのかもしれない。わからないということが、はっきりとした重みとしてそこにあって、それが次に僕が紡ぎ出す言葉の熱さを、予感させているように思う。要するに言葉をわかるっていうことは、永遠にないのだろう。あるのはただ、その言葉がそこに存在することへの、正しさの確信だけだ。