嘘の温度

今読んでいる雑誌、STUDIO VOICE vol.412の中にあるノンフィクション作家の藤井誠二さんの言葉が示唆に富んでいるなと思ったので引用します。ちょっと長いですが。

インタビューって非日常的な行為だから、相手も慎重に言葉を選んで、自分の内面を見つめながら話しますよね。そういう反応が現れやすいと思うんです。さっき僕のインタビューがカウンセリング的だと言われると話しましたが、そもそも、インタビューって会話をしながら相手の人生を整理していく行為でもあるわけですよね。人ってつねに人生について考えながら生活しているわけではないから、あらためて「他者」から聞かれることによって気づくことも多いんじゃないでしょうか。ただし、そこで浮かびあがってくる物語がありのままの、矛盾も含めた生々しい人生かというとそうではなくて、聞く側と聞かれる側のあいだで、無意識にどこかフィクショナルなものに仕立ててしまっている側面もあるとは思います。 (中略)フィクショナルな要素を宿している「自分」がそこに書かれているからこそ、相手はそれを読んだとき、本当の自分の誤差みたいばものと客観的に向きあうことができるんじゃないでしょうか。

インタビュー記事を書いていると、つくづくこの仕事なんなんだろうと思う。愚痴とかではなく、単純にものすごく不思議な作業だなということだ。よく「その場の空気感まで伝わるように書きたい」みたいなことを言う人がいて、それはそれ自体で間違いではないのだろうけど、その裏にある一種の「本物志向」みたいなものが気になる。本物とか偽物とかあるんだろうか。人は常に揺れながら流れながら生きており、その総体をある時点からある時点までで微分したものを、人生、とか呼んでいるんだろう。その微分の仕方の方向性は企画や媒体、あるいは商品の都合に合わせて変化していく。そこには確かに気持ち悪さがある。でも果たしてそれは罪なのか。虚構と虚偽の間には大きな隔たりがあるのではないか。みんなして一つの大きな嘘を作り上げて、その温度が適切なものなのかを確かめながらやっていく、それしかないんじゃなかろうか。この仕事も、人間関係とか諸々も。悲観などではなくフラットに、そんなこと思う深夜。