好きはごちゃごちゃ

好きなものに関する問いかけに対して、ある種の模範解答みたいなものを瞬時に組み立ててしまうことがあります。例えば「なぜ小林秀雄が好きなのか?」と聞かれた時、「①自分が都会育ちで、特にこれと言った才能もなかったために、②天才の観ている世界や思考回路、人生に迫ることで自分の芸術を完成させていった秀雄さんに対して憧れとともに近しいものを感じたのかもしれません」と答えたら、まあ少なくとも①に嘘はないし、②にしても100%正確とは言えないにしても概要くらいはさらえているといった感じで、回答としてかなり成立してしまうなとか。(もっといい例あるだろ、という感じなのだけれど、今はこれ以外に浮かばない。)

これは就活のwhy?によく見られる話で、(というか僕はそういうものだと思ってやっていた、間違ってたら恥ずかしい)自分の生い立ちや諸々のバックグラウンドからキャラを抽出し、希望する業界や企業の本質と結びつけて理屈を組み立てる。すると確かに言葉上は整って見えるし、いっときは本当にその通りなのかもしれないとは思うのだけれども、なんかな、自分のものではないような気がしてしまう。

こういう、言葉が瞬時に整いすぎて素朴な感情の付け入る隙がなくなってしまう、ということは往往にしてあるような気がする。さっきの小林秀雄問題に対する回答は間違いではないんだろうけど、実際のところ「なんとなく好き」が一番正しいからな、自分的には。正しいし、落ち着く。それくらいの気分でいた方が、ずっと好きでいられる気がする。なんとなく、なんだから別に後々嫌いになったっていい訳だしね。

もちろん好きすぎて色々と語ることの尽きない場合もある。そういうのはまあ、存分に表現しておけばいいと思う(今度aikoについても書きたい)。

けれど、好きな理由、その気持ちそれ自体を言葉にして、したくてしたくてそれでも足りない、みたいなものは普段の生活においてそうたくさんはない。そこに対して無理にでも「分析」を施せばなんとなく「自分を知った」感は出るのかもしれないけれど、そのぶん殺されていくなにかはあるよな、感性に対する意識の高さが感性を殺していくという矛盾、悲劇(すぐペシミスティックになります)。

就活はだから、厳しかったなあ、そんな風にレゴを組み立てるみたいに自分を表現していくのが結構苦しかった、途中から放棄してしまったけれど。前にnote

朝8時の起床がなぜ苦しいか?|たくよ|note

でも書いたように、なんとなく生きたい、ごちゃごちゃしたものをごちゃごちゃしたまんま、風に晒しておきたい。毎日書いていると文が乱れていく。暑いねえ。