創作とオリジン

フリーライターとしてインタビュー記事を書くようになって一ヶ月くらい、それでももう5本は書いているよな、10本は言い過ぎかな、とにかく全てのお話が面白くて、それが完成された記事になっていく過程が楽しくて、大丈夫だろうか、と不安になる。小説を書いている、本来自分でゼロから作りたい、そんな思いはあるものの、他者を見たり聞いたりするのは好きだ、楽しい。なんなんだろう。

前回のブログでも書いたけれど、文章を書く時、常に他者が自分の中にいる。一つ一つの言葉選び、表現、言い回し、それらが自分のオリジナルだとは思わない。触れてきた文章、周囲の人々の言ったこと、それら全部が合わさって自分自身になると思ってる。だから書く時はそれが完全に他人の代弁になっていないか、その書いたことの結果が自分に返って来たとして悔いはないか、それを考える必要がある。その意味でも書くことは自分の中の他者との闘い、なのだけれど、インタビューの場合はそれが必要ない。全体の趣旨を整理する力、その訴求力を高めるためのコピー力、それらは全て自分のオリジナルだけれど、素材は全部他人。もっとも自分がそうであるように、インタビュイーにしたって言葉を、完全に伝わるようにコントロールすることは出来ないんだ、手探りで、インタビュアーの質問と照らし合わせながらやっていくしかない。それはキラキラしている。カルビだ、焼肉で言うなら。そこに骨を突き刺して、安定させる、牛に戻して活き活きとさせる、そんな感覚がきっとある。楽しい、自分の一番落ち着く環境で、新しい言葉に触れて、それを新しい形に組み上げていく。

糸井重里さんはそういう意味でのライターではなかった、というより今の方がインタビュアーとしての印象が強い、けれどオリジンが他者にあるということは一緒だった。そして、自分発信の芸術家、つまり小説家とかミュージシャンの方が自分の領域よりも上だと考えている、という話を聞いたことがある。それでもコピーライターだから、業界の様々なルールとか、クライアントの要請に縛られることが沢山あった、だからこそ、<場>を作ることを選んだんだろうな、それはきっと彼にとっての最大の創作だった、そんな気がする。

創作というものが自分にオリジンがあるか否かによって規定されるなら、間違いなく今の仕事は創作ではない。けれどそこに空虚感というようなものはなく、ロジックや、ある種の秩序を与えていく過程で自分の中に生まれる気持ちよさみたいなものがあるんだよな。もしかすると自己表現欲求みたいなものが薄いのかもしれない。でも自己表現てなんだ。今書いているこれは自己表現なのか。でもこれが評価なんてされたら逆に困るな、なんか違う。わからん、とにかくわからん。新しいものが新しいものとして世界をさっぱりとさせてくれることが僕には気持ちいいのかもしれん、そこに自分がいなくても。もしかすると世にある創作だって、なんとなく水着の中に海が残していった砂のようなもの、なのかもしれないし。とにかく、お酒がうまいです。