プラマイの雨

どれほど健やかに恋をしても終わるときには確実になにかが減っていて、新しい恋をしてもその減りを補うことは絶対にできない。だから恋を重ねることは、どんどん減ることである。首筋に大きな磁石を巻きつけているみたいに、じわじわと硬質な靄が目の奥を暗くしていく。その靄は過去と呼ばれている。過去は増えていく。過去は憂鬱なすみれ色の蜜として、雨の中の黒い墓石として、そしてやはり硬質な靄として体を重くしていく。手を伸ばしても届くことはない。届かないというその事実がまた量感をもってそこにある。人生には過去しかない。雨だけが降っている。深夜のコンビニの前に車を停めて、運転席から窓を伝う雨の雫をずっとずっと眺めているようなそんな気分が続いている。この時間すら嘘と呼べる。

昨今、文体至上主義

千葉雅也『デッドライン』読んだので取り急ぎ。読めない、この小説はたぶんあまり好きじゃないと思ったのだがその苛立ちの中に、なにか“何処へも行けない”という、深夜の海岸に転がった空き缶を見ているような感覚が混入していて、案外読めていたのかもしれないなと思い直す。円環、書けない論文、ゲイとしての欲望が結局は自分に向かっていくということ、家族、泡のような人間関係、物語を否定したような構造とそれに対する言及。とにかく色々な要素が繋がるともなく繋がっていて、そのすべてがこの“何処へも行けない”をつくっている。そしてやがてくるデッドライン……。うーむ、なんかこう、とくにこれといった感情を引き起こされない人物同士のやりとりがすべて主人公の哲学的探求に収束していって、しかもそれ自体最後にはうまく行かないのでなんだかいちいち辟易とさせられる、というのもあるし、「これはどういう意図なの……?」というシーンがのちに唐突なタイミングで「あ、なるほどあれはここに繋がってるのね!」という形でいったんは解決に至るというような、何度も後戻りを強いられるすごろくのようで少し面倒臭い。ゲイとして、支配者性の権化みたいな男に惹かれる女的部分と、でもそういう男に自分がなりたいという部分が混濁しているという心理とか、イケメンなんだからイケメンと付き合えよみたいな、そういうのはすごく面白かったから、そこを詳しく縦横無尽なテンションで書いたりはしないのか、あの速度で抱かれたい、というところに巻く渦をもっと大きくしないのかとは思うけれど、それに対しては物語性の否定という形で対抗されてしまうのだろうか。よくわからない。ちなみに、SF作家の樋口恭一さんがツイートしていた、サスペンスみたいなカタルシスの起こし方、的なやつはよく理解できなかった。だから自分は、読者として読む力が足りないのかもしれないとは思う。

しかしよく考えてみれば、というか考えずとも、何処へも行けないというのはすべての小説に当てはまることのような気がする。というより、人生とは何処へも行けないのだ、ということを悟ってからの悪あがきのようなものという気がする、小説は。でもって、その悪あがきにのたうちまわる炎がきっと文体だ。何処へも行けないが煮詰まって、でもその中でふつふつと溜まりに溜まった視点の実存が最後、なんの変哲もないひとつの言葉によって圧倒的に気化していく。そこに読む気持ち良さがあり、そのための積み上げ、そのための下火にも文体はなっている。要するに自分は、この小説の文体に引っかかったのだろう。作品を、世界を、構造的に開示するべく選んだ簡素な文体、という風に僕は感じたけれどどうなんだろうか。だとしたらすごく大人で、僕は赤ちゃんなのでつらかった。それとも作者は噴きこぼして書いたけど僕の好みじゃなかっただけなのか。とりま酒と冷房。何処へも行けない。

彼はやはり

天才だったのですね、というゆわれかたをしてみたいもんよ。いや伏線は張ってきたつもり。要所要所で残してきた爪痕がそろそろ実を結んでもいい頃、なわけはないか。爪痕合戦で勝っても爪痕は爪痕にしかならず、爪だけがボロボロのまんま路傍の石と成り果てる。そんな将来が見えます。見えません。ウーバーイーツのひとたちはあれ一生の仕事として考えてるんだろうか。そういうとこがすごい気になる。

うちの窓辺は窓辺と呼ぶにふさわしい、きらきらと優美な曲線で部屋の一辺を縁取っている。というのも、うちの部屋はあの横浜ランドマークタワーのような、先に向かって細く斜めになっていく包丁みたいな、作りの悪い小舟みたいなかたちをしていて、その直線部と対角にある曲線部がぜんぶ窓なのだった。足元にいい具合の縁が飛び出していて、本を並べるのにちょうどいい。今もこれを書きながら目の前の本の並びを眺めていたら、中学一年の頃にはやった「チャリ走」を思い出した。あのときまだ、スマホは普及してなかったね。iPod touch(懐かしい)がそのあと何年かして出現して、これだけたくさんの機能が使えるのに自分は音楽にしか興味がない、ということに対しておそろしさと、どこか優越の混じった苛立ちみたいなのを感じたことを覚えている。しかしあの金属丸出しでターミネーターの世界から来ましたみたいな塊を携帯電話として持つのは少し大袈裟だな、という気もしていた。それが今やこんな必需品みたいな顔で全世界の人間のポケットに忍ばされてあるなんて。普及したい。要するにiphoneのように普及したい。それだけが今の願い。

羽化してさよなら

ひとと酒を飲み交わすのが不得意になっている。酒じたいは好きだし、嫌なひとと付き合いで飲むほど首尾よく社会人できてないけど、なんでしょうね、飲んでる間はさして気にもならないいろんなこと、たとえばここの料理まずくはないしうまいんだけどここまで喜ばれるとなんか違和感とか、このひとひさびさに会うけどこんな顔してたっけとか、会話のなかで生まれる謎の間とか、いまなに考えてんだろうこのひととか、あっついなこの席とか、トイレから戻るときに壁の鏡に偶然うつりこんだ自分の顔にぞっとする感じとか、なんかもうそういうもろもろにたいする無意識の膨らみがだんだんと大きくなって、眠りの針に突かれて破裂、とりかえしのつかないことをしてしまった感として翌朝おそいかかるのです。ああいう感覚はもう、「他者」としか言いようがない気がする。デジタルカメラが処理できるコマ数に限界があるように、人間の感情、関係性や解釈によって処理できる現象にも、きっと限界がある。この人のことは好きだけど、その人と一緒にいる際に生じるすべての現象を好きに還元することは不可能、というような。ことに酒を飲んでいると、自分そして外界という構図もどんどん曖昧なっていって、自我プラス自分そして外界みたいな、わけのわからない自分という現象体が一個足される。そして、別に不快にさせる発言をしたつもりはないけどとにかくすべての言葉が自分のコントロールから離れていって、ここにいる自分は本当に自分なのかというような感覚へとやがて成長するし、終盤、もうなにも食べたくないはずなのにまるでなにかに急かされるように変なものを頼んでしまうときには、意識の真裏で無音の狂騒がまきおこる。チャップリンの時代の無声映画が頭の中をぐるぐると駆け巡る、ヒトラーがなにか叫びながら拳を行き来させている。そういう、外界とお相手に自分までが協賛して、つくられたわからないがわからないをさらに呼び、産んで、群れとして集まった集合体の重みが、他者。この他者だなぁという感じは、翌朝孵化してから気づく。つまり後追いで、記憶を塗り潰していくのです。なんて理不尽。なんて暴力。なんて芸術。いつかさよならとして羽ばたくのも、こういう理不尽さなんじゃないだろうか。なにか価値観の違いみたいな決定的のものではなく、他者であることの宿命的な重みが、どうしようもない乖離となっていつしかその羽を開く。そして伸ばした指のすぐ先を、ほろりと舞ってさよなら、

軽薄だからこそ

現実を知っているというような口ぶりの人々の語る現実とは大体がカテゴリ的に決定されているわけで、それは性欲、暴力、金銭欲求承認欲求といったもう歴史上何遍も何遍も人類を破綻させ疲弊させてきた諸々のロジック、はたまた情動であるわけですが、果たして、それらをお餅のように世間様に投げつけ己の真実を正当化することと、それらの“現実”がほとんどないことのような顔して愛だの希望だの歌うこと、いったいどちらがより罪深く、いやらしいのでしょうねぇ。これにしたって結局は誰がなにを言うか、の問題系に収斂していくのでしょうか。でもそうかもしれないね。そうかもしれない。人は顔や目つきや口調や身振り手振りを内容以前に判断の指標としていくし、それは言葉の存在を形骸化しているということでは決してなく、内容、意味、論理の跳梁を許さない人間最後の抵抗みたいなところがあるのかもしれん。書く人はそれを文体でやっているとおもう。だからそこには滲み出る。その人がなにを信じているのか。信じようとしているのか。その言葉によって彼彼女の懐へ反射として飛び込んでくるのはなんなのか、その反射物を彼女彼は愛するのか、憎みつつも受け入れ忸怩たる思いとともに明日へ向かって歩くのか、そんなようなことが。とかなんとかいっておいて、結局できることといえば好き嫌いの判断、ぐらいのもんで。だからこそ、軽薄だからこそ言葉は良いのかもしれない。

 

荒れ野

社会生活をおくるうえですべきことは山ほどあるというのに、小説を書くことにすべての重きを置くとはどういうことだろう。しゃべりたくない、人と会いたくない、風に吹かれて肌に排気ガスのカスがつくのがイヤ、口から漏れる音が自分の耳にまた入ることの恥ずかしさ、礼儀、尊重、忖度と自尊心のスクランブル、すべてに背を向けて目の前に空白を見ている。ずっと見ている。遠い雷鳴に耳を澄ますように、なにかがくると信じている。酔っ払いの敵は傘。

今はたぶんまだミぐらい

わたしはわたしという人間であることになんの疑問も抱きはしないのだけれど、いやたまにサンゴ礁の奥深く未だ人に知られてない生命体の仲間の一員になったような、決して辛くはないが圧倒的に重みのある孤独の中で肉体というものの裁きに対する弱さを感じはするものの、そういうのはごくごく個別具体的な、実感という概念すら水で薄めてしまうほどのなにかなのであって、とりあえずはそれが、人生のなにがしかを左右すべく方位を指し示すということはないのだった。どういうわけか人は、しばしば次のことを忘れる。わたしはわたしだが、それはほかのだれそれと交換可能であること。わたしの同等かそれ以上、あるいは古くを消して新しいの、ともかく才能や容姿や経歴や家柄やコミュニケーション能力といったものの細部に至るまで、わたしはわたしでわたしのものであるといって譲らない。ドレミファソラシドの音階を踏むように人生が破滅へと向かっていくのに、いや向かっていくからこそ、そうした事実としてはあまりにも単純な事実を認めようとはせず、やれ国だ、学閥だ、企業だ、資格だ名誉だといってわたしにわたしでないものを塗りたくってわたしたろうとする。わたしにはわたしを虐め抜いてこそ見えてくるわたしがあるのだと信じて、みな心身ともに疲れ果て、やがて海の藻屑となってゆく。海の藻屑が古ければ果物だ。にんじんだ。じゃがいもだ。腐った鶏肉だ。塗った爪はなぜ染めた髪ではないのか、と考えるから空が青色に暮れていく。